朝ドラ「まんぷく」のモデル、日清食品創始者にしてカップラーメンの生みの親。
ミスターヌードルと言われた「安藤百福」の生い立ちから晩年までを15の要点に絞って紹介します。
百福の波乱万丈な人生が気になったら、続きをどうぞ!
目次
百福の人生は台湾から始まった
安藤百福(あんどう・ももふく)は1910年に日本統治時代の台湾で生まれます。
百福は両親ともに台湾生まれの台湾人でした。ただし、日本統治時代に生まれたということで、民族としてのアイデンティティはそこまで強くなかったのかも知れません。
後に日本人の妻と結婚して養子に入り、安藤百福となりました。養子になるまでは呉百福という名で、百福は本名です。
祖父の元で経営を学んだ百福
幼い頃に両親を失った百福は、祖父母に育てられました。
祖父は台湾の裕福な資産家で、呉服屋の経営で成功したお金持ちだったようです。
幼少期から厳しく育てられたことで、社交やマナーを身に着けて育ちます。14歳で台湾の義務教育課程である高等小学校を卒業すると、祖父の呉服屋を手伝い始めます。
ここで実践を通して経営を学んだことが、後の百福のキャリアの礎となりました。
辞める勇気!図書館の司書をわずか2年で辞めた百福
20歳になった百福は、高等小学校の知人の紹介で図書館の司書の仕事を得ますが、たった2年で辞めています。
司書は向いていないと考えた上での決断だったのでしょう。必要なら勇気をもって手を引くのが、百福が死ぬまでブレなかった生き方の一つでもありました。
会社を起して成功、人生をかけて日本へ
百福は、亡き父が残した遺産を祖父からもらい受け、日本を相手にした輸入会社を設立します。
これが台湾で成功し、日本に事業進出しました。
立命館大学の夜間に通い修了
忙しかったはずの百福ですが、日本では学歴が無いと肩身が狭いということで、大学に通いました。
会社を経営をしながら、夜は立命館大学の夜間で学び、修了します。
人生で様々な事業に手を出した百福
百福は色んな事に興味を持つ好奇心旺盛な性格でした。実に様々な事業にチャレンジしています。
メリヤス
メリヤスとはメリヤス縫いという縫い方で作られた布生地のこと。日本から輸入して、台湾で売ることで、最初の成功を手にしました。
幻灯機
簡単にいうと昔のパワーポイントのようなもの。光を壁に反射させて、像を映し出す機械です。
バラック住宅
戦後に良くたてられた簡易的な材料で作った家のこと。そういえば、ラーメンの実験してた小屋も、きっとバラック住宅のノウハウで作ったのでしょう。
軍用機の部品
軍用機のエンジン部品にも手を出しています。後ほど紹介しますが、この事業が原因で思わぬ悲劇が百福を襲います。
その他
炭焼きという木材を焼いて、炭を作る事業や、食塩を作る製塩事業も手掛けていました。
人生で2度の逮捕、拷問を体験する
百福は人生で2度逮捕されています。一つは目は資材横領容疑、もう一つは脱税容疑。
どちらも、理由に信ぴょう性があったかは疑わしいですが、大変な苦労を経験します。
軍用機の部品に携わって逮捕、ひどい拷問を受ける
軍用機のエンジン部品向上で資材横領容疑をかけられ逮捕され、ひどい拷問を受けています。
後に開腹手術を受けるほど、凄まじいものだったそうです。
2度目は脱税疑惑で逮捕
従業員への給料に税金をかけていないということで脱税の疑いで逮捕、裁判の結果、4年間の重労働の刑を言い渡され刑務所へ収監されました。
百福は裁判で戦う覚悟でいましたが、残した家族の身を案じて訴えを取り下げました。
無職になり財産を失い再び人生のどん底へ
波乱を乗り越えてきた百福は、実業家としての才能が徐々に認められるようになり、ある信用組合の理事長を依頼されました。
しかし、その組合が経営破綻、しかも無限責任を負っていた百福は、なんと大阪の池田にあった自宅以外の財産をすべて没収されました。
50歳を越えてからチキンラーメンとカップヌードルの大成功
家以外の財産を失った百福は、自宅でインスタントラーメンの開発を始めます。この時、既に47歳でした。
チキンラーメンを発明し大成功
終戦直後の食料難で、屋台のラーメンに並ぶ人々を見た百福は、お湯さえあれば自宅で作れるラーメンを開発しようと決意します。
百福は大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、素人ながらもラーメン作りに没頭しました。
ある日、妻が調理していた天ぷらを見てひらめき、麺を油で揚げて、乾燥させるというインスタントラーメンの作り方の原型ができました。
家族や知人の協力もあり、1年間の試行錯誤の後、チキンラーメンが完成しました。
そして、1960年代前半から日本ではテレビCMが影響力強め、そこでチキンラーメンを宣伝したことで、人気に火が付きました。
なんと、百福は創業5年目で年商43億円企業の社長となりました。
カップヌードルが大流行
1960年代後半、海外進出のためにアメリカを視察した百福。欧米の家庭には箸もどんぶりも無いことを知ります。
そこで、フォークで食べられるインスタントラーメンを作ろうと研究を続け、1971年にカップヌードルが完成しました。
ちょうどその同時期に起きた「浅間山荘事件」が日本中の注目を集めた時、
そこで機動隊員達がカップヌードルを食べている様子がテレビで流れたことで、爆発的に売れる人気商品となり、カップヌードルは大成功を収めました。
失敗したカップライス
1970年代に、カップヌードルのライス版「カップライス」を発売しました。しかし、原材料の米の値段が高かったため、庶民には買えない値段設定になり、売れませんでした。
ここで、設備投資に使った30億円を捨てて、カップライスから早期撤退します。
この判断が良かったのか、経営に与える影響はそこまで大きくならずに済んだようです。
その後も、次々と新しい商品を世に送り続けました。
百福はなぜ日本に帰化したのか想像してみる
そもそも、なぜ台湾人の百福が、日本に来て、成功したいと思ったのか、当時の台湾と日本の関係から推測しました。
台湾の少年にとって、日本はあこがれの国
百福が生まれた1910年の台湾は、長く日本の統治下にあった時代でした。
中国との日清戦争に勝利し台湾を得た日本は、植民地支配を目的に、自国の領土として台湾の日本化を進めました。
その中で育った好奇心旺盛な百福は、教育も科学技術も全てが進んでいる日本に憧れたのではないでしょうか。
両親を失った寂しさも、百福をより、日本に近づけたのかなと想像してしまいます。幼い頃に経験したことの多くが、百福の後の人生に強く影響を与えているようです。
日本の家族の存在
安藤家の養子に入り、日本人となった百福。
幼い頃に両親を亡くした百福にとって、日本で出会った妻とその家族との絆はとても強かったのだと思います。
負けず嫌いな百福なので、2度目の逮捕の際は法廷で争うつもりでした。
しかし、残していた家族の身を案じ、訴えを撤回して家族の元に帰る決断をするほど、家族想いの人でもありました。
日清食品の名前は中国とは関係無い!
百福の過去を調べていくと「日清」って中国と関係あるのかな?と疑問に思いました。
結論から言うと、中国とは全く関係ありません。
「日々清らかに豊かな味をつくる」という百福の言葉が社名の由来になっているそうです。
社名の由来 「日々清らかに豊かな味をつくる」という創業者・安藤百福の言葉を由来とし、日清戦争(ほか日本と中国の清朝にかかわることを意味する単語)との関係は無い。
社長辞めても人生を楽しむ「面白いおじいちゃん」だった
百福は社長を退任してからも、面白いことを色々しています。
4年間の日本全国郷土料理の旅に出る
社長業を子どもに譲った百福は、ずっと気になっていた
「日本人は何を食べてきたのか」
の答えを探るべく、4年間にわたり日本各地に足を運び郷土料理を食べる旅をしました。
しかし、これだけでは終わりません。
ラーメンの起源が気になって、世界を巡る旅に出へ
次に百福は「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という問いの答えを求めて、中国、中央アジア、イタリアなどを巡る旅に出ます。
食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して料理研究家の奥村彪生とともに上海、南京、揚州、広州、厦門、福州、成都、北京、西安、蘭州、ウルムチ、トルファンなど中国全土を巡って300種類を超える麺を食べた。
麺の系譜図を完成させてしまう
学者に依頼して、シルクロードを探検させ、麺のルーツをたどる系譜図まで作ってしまいました。
それによると「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」とのことです。
百福が人生で残した数々の功績

宇宙食の開発
宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組み、2005年スペースシャトル「ディスカバリー」に搭載されました。
日本人の宇宙飛行士の野口聡一によって食される様子がテレビで放送されました。
災害支援、スポーツの振興に尽力
災害の救援活動やスポーツの振興にも、百福は貢献してきました。
1995年の阪神淡路大震災では100万食以上を救援し、その後も、国内外の災害に救援活動に積極的に参加し貢献しています。
日清スポーツ振興財団を設立し、スポーツの振興や指導者の育成にも大きく尽力しました。
長生きの秘訣は「チキンラーメン」
長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と言っていたそうです。
96歳で大往生 ニューヨーク・タイムズで「ミスターヌードルに感謝」との見出し
2007年に亡くなったその年、ニューヨークタイムズは「ミスターヌードルに感謝」という見出しで、「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」とその功績を称えました。
日本人は百福の人生に共感できるだろうか?
百福の過去を探ってみて僕が思うのは、現代の日本のビジネスマンの常識とはかけ離れた、百福の生き方と人生観です。
会社を2年で辞めて事業を起こして海外進出。色んなことに手を出して、危ない事業にも手を出したりして2度の逮捕。
日本人は、百福の生き方に共感できるのでしょうか?
もしかすると、「百福のような天才だからできたんだ」という人も多い気がします。
最後に、現代の日本社会に向け、百福が残した数々の名言を贈ります。
名言が止まらない…百福が人生で残した言葉たち
百福が残した言葉たち
即席めんの開発に成功した時、私は48歳になっていた。遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。50歳でも60歳からでも新しい出発はある。
即席めんの発想にたどり着くには48年間の人生が必要だった。過去の出来事の一つ一つが、現在の仕事に見えない糸で繋がっている。
5年間必死で働く意志と体力さえあったら、年齢に関係なく必ず成功できる。
ラーメンを売るな。食文化を売れ。インスタントとは即時・即刻・瞬間という意味である。してみるとインスタント食品とは時間を大切にする食品ということになる。
みずからの足で歩き、みずからの目で確認しなさい。そうでなければあなたの話には重みも説得力もない。
企業にとって借金は麻薬のようなものである。一度その味を覚えたら抜け出せなくなる。高い山の後ろには、必ず深い谷が待ち受けている。順調な時ほど危機が訪れる。問題ないと考えること自体が問題である。
人には必ず得手不得手、向き不向きがある。だから助け合うことでよい結果が得られる。
良い商品と売れる商品は違う。衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ。独創性のない商品は競争に巻き込まれ、労多くして益は少ない。
その商品には消費者が支払った対価以上の価値があるか。売れるかどうかはそこで決まる。大衆の声こそ神の声である。
人間はなまじ知識があるから本質がわからなくなる。知識よりも知恵を出せ。机の上でいくら思案しても優れた発想は生まれてこない。
事業を始めるとき、金儲けしようという気持ちはなかった。何か世の中を明るくする仕事はないかとそればかり考えていた。会社は良い仕事をしたから儲かるのである。
どんなに優れた思いつきでも、時代が求めていなければ人の役に立つことはできない。
失敗するとすぐに仕事を投げ出してしまうのは、泥棒に追い銭をやるのとやるのと同じだ。転んでもただでは起きるな。そこらへんの土でもつかんでこい。
逆境に立ってすべての欲とこだわりとを捨て去ったとき、人は思わぬ力を発揮できる。即席めんの発想にたどりつくには、48年の人生が必要だった。過去の出来事のひとつひとつが現在の仕事に見えない糸でつながっている。
人生、いつもうまくいくとは限らない。もし、ああ、無駄な歳月を過ごしてしまった。取り返しのつかないことをしたと思ったら、本当に取り返しのつかないことをしてしまったことになる。
目標を持ったら、あとは執念だ!
波乱万丈な人生を歩んだ安藤百福ですか、その芯にあったのは、世の中の役に立ちたいという情熱と、家族への愛でした。
世界中で食べられているカップヌードルには、安藤百福の生き様が刻まれています。
その想いはカップヌードルとして形に残り、人々に勇気と希望を与え、世界に貢献し続けています。
これからも偉大な発明家、安藤百福の精神はこれからも色褪せることなく、世界を照らし続けることでしょう。
最後に、安藤百福についてもっと知りたい人のために、おすすめの本を紹介して終わります。
朝ドラと安藤百福をさらに深く学べる本 4選
本を読んで、今までの話をおさらいしたり、今後の朝ドラの展開を予想して楽しめるような、本を最後に紹介します。
とてもいい記事でした.ためになる記事をありがとうございます.僕も学者に興味があるので,参考になりました.